FC2ブログ

一冊の周辺 ― 『もの食う人びと』

2014年08月30日

IMG_0876

一緒にごはんを食べるのがすごく楽しい人、というのがたまにいて
6年くらい前に一緒に仕事していた後輩がそうだった。

基本的に大食いで、一人前で足りることはあんまりないから
初めてのお店に入るとさりげなく周りを見て、
そのお店の“標準”を確かめてオーダーを決めた。
たいてい大盛りになった。

男1・女2で昼ごはんを食べに出かけて、彼女だけが大盛りを注文した。
店員さんが大盛りを男性の前に置こうとしたときに
憮然とした感じで「私です」と言うのがおかしかった。

大盛りやおかわりができないお店では、
「それならそれで全然」という様子で食べて、
あとで何かを買って食べていた。

得てしてそういうものだけれど、大食いのわりに
手足が細くて長くて遠目には子鹿みたいに見えた。

あるとき、帰り道に寄ったコンビニで
子鹿に「おにぎり買っていいですか」と聞かれた。
聞かれるってことは買ってあげたほうがいいのかなと思っていたら、
ごちそうになったのに足りないって言っちゃって、という
彼女なりの気遣いらしかった。

足りたときはもう何も食べないし(当たり前ですが)、
足りないときはぴったり足りない分を追加していた。
彼女の胃のあたりをよく見たら、「満腹ライン」を示す線が薄ーく見えて
ラインに達するとどこかが光ったりするんじゃないか……と
本気で思ったりした。

そういう緻密さ(?)は量の話だけはなかった。

ある日には、週末に実家に帰ったときにお母さんがミキサーでまわしていた
赤いドロッとした液体はなんだったんだろう、
ということを半日くらいしゃべっていた。
こちらも、トマトジュースじゃないのかとかいい加減な返事をして、
翌日には忘れていた。

数日後にいきなり
あれね、ガスパチョでした!
と言ってきて、とっさになんのことだかわからず戸惑った。
わかったあとに、ああずっと気になってたんだな、と思った。

別の日には別の後輩から

昨日の夜、机でアタマ抱えてるから何事かと思ったら
すげぇ旨いさんまの缶詰を昼に食うつもりだったのに
家に忘れてきたって言うんです。
そのとき夜ですよ。いま思い出したって言ってんですよ。
忘れてて別の昼メシ食っちゃったんだし、
もう帰るだけなんだからどうでもいいと思うんですけどね……

という話を聞いて、
その頃には食べ物に対する彼女の思考が少しわかってきていたので、
なんとなく理解できるぶんだけ余計におかしかった。

さらに別の日、出張に行く新幹線に
立方体の箱に入ったお弁当を買って乗ってきて、
「これってイチかバチかですよね」と
いきなり極端なことを言った。

要は、6つある面のどこを上にして置けば中身がひっくりかえったりしないのか
6分の1の確率だ、ということを言いたいらしかった。
箱は確かに見事な立方体だったけれど
「上」であるはずの面にはお弁当の名前が書いてあるだろうし、
「側面」は側面らしいデザインになってるだろうから
6分の1ってことはないでしょ……と思うけれど、
一事が万事そういう感じで
とにかく飽きなかった。

見ていて楽しいのは、食べることに対して
いちいちまじめに向き合うからだと思う。

べつにどうでもいいんだけど、
という態度で食べ物に向き合うところを一度も見なかった。

コンビニのおにぎりもガスパチョもさんまの缶詰も立方体のお弁当箱も、
彼女の前に登場することができて、
“食べもの冥利”に尽きるだろうな、と思った。

結婚することになったんです、
と報告してくれたとき、
間髪入れずに「相手の家、肉屋なんです」と言われて、
生まれて初めて結婚報告を聞いて爆笑した。


できたら自分も、食べることに対してまじめでありたいと思う。
『もの食う人びと』を読むとなおさら思う。

物事には手で触らないとわからない現実があるように、
歯で噛みしめないとわからない現実がある。
そして、食べることにちゃんと向き合って
食べることを通してその先を見ようとする人にしか見えない景色がある。

そのことをこの本におしえられた。あと後輩にも。


『もの食う人びと』 辺見庸 (文春文庫)

一冊の周辺 ― 『猫のよびごえ』

2014年08月24日

IMG_0222

一緒に暮らす動物とは、たいてい道ばたで会った。

高校の春休み中、遊んで帰ってきたら
家のなかに籐の大きなかごがあって
そのなかに白い犬がいた。

小学生だった妹と、隣に住んでいた女の子が、
いつも行く公園で捨てられた5兄弟を見つけて
そこから一匹ずつを抱っこして帰ってきたそうで、
そのまま犬は私たちの家族になった。

じつは3日後に旅行に行くことになっていて、
いきなりお隣さんに預けて出かけてしまったけれど
犬は帰ってきた私たちを見て
しっぽを振ってくれた。

次の年の夏休みには
牛乳を買いに近所のセブンイレブンに出かけて
猫を拾った。

行き道で気になった「ピィ……」という声が、
帰り道ではもっと大きく聞こえた。
古いアパートの錆びた階段の下に小さな段ボール箱があって、
ふたをあけたら手のひらより小さな子猫がいた。

祖父が亡くなって一人暮らしになったばかりの祖母に
家族全員で頼み込んで、もらってもらった。

目が開いていない時期からスポイトでごはんをあげて育てたのに、
祖母と暮らし始めてから、
猫は祖母の言うことしか絶対に聞かなかった。

誰が呼んでも知らんぷりをして、触ろうものなら毛を逆立てるくせに
祖母が呼ぶと冗談みたいな猫なで声でおなかを見せた。

祖母にとって面倒な訪問客が来るとシャーシャー怒って邪魔をして、
大切なお客さんが来ると“脇に控えて”待機した。

一度、台風の夜に、祖母が目覚めて玄関を見ると
上がり框に座って外の嵐をじっと見つめていたそうで、
「朝になってあたしが起きたらコトンと寝ちゃってね」
と祖母は言った。
猫は祖母というお姫様のナイトだった。

家族だった犬も、祖母のナイトも、もういない。

そして去年の夏、
帰ってきた夫のかばんのなかに子猫がいた。
会社のガレージに、にゃあ…と鳴きながらやってきたらしいやせっぽちは
夫と一緒に車に乗ってうちへやって来た。

人と人がそうであるように、
動物との出会いも
偶然が自然だというふうに思っている。

会ってしまったら、
相手は命だからこちらに判断する余地はないし、
あちらにも飼い主を選ぶ権利はない。

だから、犬がいいとか猫がいいとか、
種類がどうとか大きさがどうとか、
選ぶのがおかしいとまでは思わないけれど、
本当はそういうものではない気がしている。

まーほかに選択肢もないからいいやよろしくね、
という感じの出会いかたが本来だ、というふうに。


動物と人との距離感が、
知るかぎり最高に自然で最高におかしい『猫のよびごえ』という本は、
それでいて命とのむきあいかたを
照れながらまじめに問いかけてくる。


『猫のよびごえ』 町田康 (講談社)

一冊の周辺 ― 『鉄輪』

2014年08月12日

IMG_0812

海岸線にそって無数の盆提灯が並んで、
暗い砂浜がその夜だけ明るく照らされていた。

盆送りに合わせた祖母の帰郷についていったときのことで、
親戚の中心的な存在だったおミツおばあちゃんの初盆だった。

人の生死にまつわる儀式への意識は、
都会にいると希薄になる。
住んでいる場所は都会ではないけれど田舎でもないし、
毎日、24時間の半分は都心にいる。

祖母の故郷は海辺の町で
砂浜に座って遠い親戚たちと一緒に
お刺身を食べ、缶ビールを飲んで
犬と遊んだり、海に入ったり、
親戚の誰かとまちがえられて
知らない人に話しかけられたりした。

熱気とアルコールと人に酔いながら、盆提灯を見上げた。
人が、生きて死んでいく、ということに対して
頭で考えているのでもなく、
心で感じているのでもなく、
手のひらで触っている感覚があった。

こないだ赤ン坊だったのにお嫁さんだもんなぁ!

結婚した年の夏だったので、
子どもの頃によく遊んでもらったおにいちゃんが
赤い顔で言った。

ひさしぶりやろう、と引っぱられてきた人の顔を見ると
昔よく遊んでくれた同い年の元・男の子で、
すでに両親のいない身だった。
「おぼえてる?」と聞いたら「あさこちゃんやろ」と笑った。

何度も訪れた場所ではない。
それでもなぜか、
祖母の故郷はいつも私にとっての故郷でもあった。

人の数が多すぎて、関係がややこしすぎて、
誰が自分にとっての何に当たるのかほとんどわからなかったけれど
この海辺の町の人々の血と私の血は確かにつながっていて
そのことを漠然と感じていた。


『鉄輪』の舞台の鉄輪温泉は、
祖母の故郷から近い場所にある。
著者は、大きな温泉街の旅館だった実家の没落とともに
さびれて鄙びた鉄輪の町に移った。

車窓の外を映した写真に添えられた
「まだ何も手にしていない者の不安と底なしの自由」
という言葉が、読後、ひっかき傷みたいに記憶に残った。

盆送りの翌朝、飛行機に乗る前に鉄輪に寄ってもらった。

この町に“流れて”きた著者の、
あの途方もない不安と苛立ちのうしろに
この景色があったんだ、と思った。


『鉄輪』 藤原新也 (新潮社)

一冊の周辺 ― 『家族』

2014年08月07日

IMG_1214

長く地元に住んでいた父方の伯母が
世田谷のマンションに引っ越したのは
実家を取り壊すことになったからだった。

遊びにきてね、と伯母は言ったけれど
3年経ってまだ遊びに行っていない。

ただ、伯母のほうがたまに地元に戻ってくるので
それでひさしぶりに会った。

親戚に「化け物トリオ」というのがいる。
実年齢よりも20歳くらい若く見られるらしい人たちのことで、
10歳若く見られるのは素敵だけれど
20歳になるとちょっともう、
見かけ以外のなにかが足りてないんじゃないのか……とも思うけれど、
化け物たちはまんざらでもなさそうだったりする。

トリオのひとりがその伯母で、
ひさしぶりに見てもやっぱり異様に若かった。
今年で72になるはずだけれど、50代半ばくらいにしか見えなかった。

伯母は早い時期に兄をふたり失くし、
大学教授の秘書の仕事をしながら
両親とずっと暮らしてきた。
終戦の焼け野原を東京から千葉まで歩いて帰った、
という記憶がある世代の人だし、
その人生には人並み以上の苦労があっただろうと思うのだけれど、
陰が見えない。

それはたぶん伯母が派手できれいだからで、
キラキラしてればたいていのことは隠れる、みたいな人生観が
伯母にはあるような気がする。

実際、誰かが入院したり別れたり亡くなったり
そういうネガティブな出来事のときも、伯母はきれいだったし明るかった。
そんな伯母と、末っ子の父は、
親戚たちが言うには、6人きょうだいのなかで
いちばんよく似ていていちばん仲が良かった。


『家族』という小説が描き出すように、家族には、
それぞれの立つ場所からしか見えない景色があって、
それぞれにしかわからない思いがある。

一人称が、つまり語り手が持ち回りで章ごとに変わっていくことで、
互いには見えないはずの景色と思いを
一冊を読み通すことで一望できてしまうこの小説は、暗くて重い。
でも、確かな温かさでそれぞれを描き、家族そのものを描く。


世田谷に帰る伯母を送りながら皆で話をしていたら
「忙しいんでしょ? またしばらく会えないわね」と
伯母が私を見て言った。

いろいろと伯母の言うとおりだったけれど
伯母がさみしそうなことを言うのがいやで
「……全然。いつでも会えるって」
と答えたら伯母は
「そういう言いかた、お父さんにそっくりね」と
おかしそうに笑った。


『家族』 南木佳士 (文春文庫)


最新記事