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一冊の周辺 ― 『光抱く友よ』

2014年02月27日

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高校生の頃、生年月日の数字を一桁ずつ足していって
その合計の数字から運命がわかる……
という占いがあった。

細かく分かれるから当たるよー、
みたいなことを言われた気がする。


細かく分かれても、おんなじだね。


と思ったのは、自分の誕生日が
1977年11月22日で
隣にいた友達の誕生日が
1977年12月12日だったからで、
足した「30」の数字から
なんらかのおなじ運命が占われた。

おなじだったのは誕生日の合計数字だけではなくて、
身長も体重も血液型も、
おなじふたり姉妹で妹の年齢までおなじだった。

以来、マメに連絡を取ったりはしないけれど

人生が浮いたり沈んだりしたひとつひとつを、
結局はいつも最初に報告してきた。
いいとも悪いともいわないけどまぁ味方なんだろうな、
という心強さが互いにあった。
互いにというか、すくなくともこちらはそうだった。

ずっと近くにいるのだから、
誕生日みたいなスペック以外にも
似ているところは確かにあるんだと思う。

それでも私は、自分たちふたりが近くにいるのは
「全然ちがう」からだと思っている。

おなじものを見ておなじように思っても、
そこからの行動が違い、記憶の仕方が違う。
いつかそれを思い出すときの表現もたぶん違う。

いつも、わかりたいな、と思う。

逆立ちしても本人には言わないけれど、
だから私は彼女にぺたぺたくっついているのだと思う。


『光抱く友よ』を読んでから、
人と人は「ちがう」から友達になるのだと思っている。

アルコール依存症の母親を抱え、水商売のかたわらに高校に通う同級生と、
大学教授のひとり娘である主人公。

友情というのは、いくつもの共通点を見つけて生まれてくる共感ではなくて、
どうあがいても理解することのできない、
分かち合うことのできない痛みを
必死になってわかろうとする気持ちのことをいうのだと思っている。

『光抱く友よ』 高樹のぶ子 (新潮文庫)

一冊の周辺 ― 『クリスマスの思い出』

2014年02月20日

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雨はきらいだという人は多い。
雨自体はともかく、外出時に降る雨はイヤだという人はもっと多い。

雨自体も外出時の雨も、とくにきらいではないけれど
雨が降るといつも面倒だな...と思う。

つまり傘がきらいなのだと気づいたのは、最近のことだった。

傘は確実に片手をふさぐので、
外にいるとき、できることがちょうど1/2になる。

その代償を払っても、まったく濡れずにいられるわけではない。
髪と顔は守れるかもしれないけれど、全身でみれば
「びしょびしょにならない程度にしのぐ」ことがせいぜいだし、
髪と顔が濡れていては絶対にまずいシーンなんて日常生活にそんなにない。

打ち合わせに行ってこちらの髪が濡れていれば、
ああいま雨降ってるんですねって知らせることができて
便利だったり……しないですかね。

だから私が傘をさすのは単に
ささないとアホだと思われるからで、
雨が降った時の行動に
「さす派」と「ささない派」がある世の中になったら
まずささない。

この屁理屈を人に話すと
「高いお金を出して気に入った傘を買うといい」と言われることがある。
いま隣に座っている後輩も、会った頃に同じことを言った。

私はこういう考え方が好きで、なるほど……と思ったけれど
自分の行動を半分に制限する完璧ではない道具を
愛せる気がどうしてもしなかった。

社会はまださす派・ささない派で構成されてはいないので、
結局のところ雨が降ると傘をさすけれど、
「傘がきらいだ」と気づいたとき、
少しだけ自由になった気がした。

好きとか嫌いとかいう問題ではたぶんないものを相手に
好きとか嫌いとか言ってみられたことに満足した。

思えば、傘は子どもの頃からきらいだった。

子どもは不自由だと思う。
良い悪いとは別の思考軸を、
好き嫌いとは別の判断軸を持ちにくい。

 「僕は七歳で、彼女は六十歳を越している。
  僕らはお互い無二の親友なのだ」

『クリスマスの思い出』の7歳の主人公は、
精神が「子どものまま」の遠縁のいとこのことを親友と呼ぶ。

名前のつけにくい間柄を大切に守り続けることもまた、
子どもの世界ではとても難しかった。

自分にとってだけ大切だったものを、
もっと大切に思ってあげればよかった。

戻らない子ども時代に、そんなふうに思うことがある。

『クリスマスの思い出』
トルーマン・カポーティ著/村上春樹 訳 (文藝春秋)

一冊の周辺

2014年02月16日

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『第2図書係補佐』(又吉直樹 著)という本のまえがきに、
「自分の生活の傍らに常に本という存在があることを書こうと思いました」
という一文があって、いい文章だなと思いました。

本の紹介記事をクライアントである高校の
副校長先生にご依頼したとき
「本の内容ではなくて、先生と本のご関係をおしえてください」
とお伝えしました。

本の周辺で働いていて、多くの本を知りました。
一冊の本と出会う入り口は、
どんなものでもいいから、たくさんあるほうがいい。

そう思って、自分でも書いてみることにしました。
大好きな本ばかり、取り上げていくつもりです。

鈴木朝子

一冊の周辺 ― 『神の火』

2014年02月12日

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すべてにおいて気が長い、とは言えないし、
あきらめも悪いほうではない。と思う。

ただ、人との付き合いはいつも長い。

まだ歩けない頃に地元の公園で会った幼なじみとは今でも友達で、
中学校の仲間に「ひさしぶりだね」と言ったことはあんまりなく、
高校時代の親友から一月も音沙汰がないと生きてるかな…とそわそわし、
30代半ばのおっさんになった夫のことは10代の頃から知っている。

そして、会社のボスたちふたりには、
気づけば12年お世話になっていて、
社外の恩人たちとのお付き合いも同じく12年を超える。

人付き合いで会社にいるわけじゃないけれど、
人付き合いの面も多分にある。

要は、長く付き合わないと見えてこない相手のかっこよさを、
強さや弱さを、それゆえの魅力を、
知らないで済ますことができないんだと思う。

そういうわけで、この人生で何かときっぱり決別した覚えがない。

住む場所でもはたらく場所でも
“人間関係を一掃”というやつを、
感覚として知らない。


『神の火』という壮大なサスペンスを何度も読み返すのは、
主人公がそれまでの人生に決別するくだりを読みたいからだと思う。

十三の中華食堂で、もう来られないと思うから、と店主に告げて
最後のレバニラ炒めを食べて最後のウォッカを飲み、
数冊の本と一着のスーツを残して持ち物をごみ袋に詰め、
会社の席の窓際にあるサボテンに「じゃ…」と挨拶して去るその際に、
「君はなんだかたんぽぽの綿毛みたいやった」と言われる──

こんな思いは絶対にできない、と思いながら
ラストシーンに向かうその悲しい心模様を追いたいから
とっくに結末を知っている物語を
何度も読むのだと思う。

『神の火』 高村薫 著 (新潮文庫)


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