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ないものをつくる

2010年08月27日

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3カ月くらい前のクーリエジャポンに、
書体メーカーのモリサワについての記事がありました。
同社の2009年2月度の年間売上高は、
前年比5.3%増だったとか。

コンピュータではなく
手書きによる書体デザインにこだわっています。

1つの書体ができるまでに、4年もかかったりする。
販売、マーケティングその他の部門から
完全に切り離された場所で、
34人のデザイナーさんたちが
書体開発に打ち込んでいる様子が
記されていました。

書体は、世の中にたくさんあります。
もう、十分にあります。
それなのに、開発を続けるのはなぜか。

プロの仕事にはまさしく、
そういう特性があるように思います。

自分がかかわる分野が、
よりいっそう奥深さを増し、可能性を広げることに、
疑問を抱かない。

編集作業のなかで、
私がもっとも興味をひかれたのは、
書体や用紙といった「素材」でした。
種類の多さに驚いたし、
同じように見える書体の微妙な、
比べてみてはじめて分かるような確かな違いに、
そして、そこから(基本的に)好きなものを
選べてしまうということに、
非常な奥深さを感じたからです。

モリサワの人たちは、それを可能にしてくれている。

そして、イメージに合う書体がなくても、
新しい書体をつくっちゃおうとは、私は思わない。

ないならつくっちゃえばいいよって、できない。
探そうとは思っても。

それは、つくられている道具たちが、
唯一であり、プロの仕事によるものである証です。

出版されている本については、
反対のことが言えます。

ないなら、むしろ、ないからこそ、
つくりたいと思う。

リッツ・カールトンの本はもうあるのに、
なんでもう1冊出したの?

という質問に、自分が答えられるように、
モリサワの人たちは、
ひとつひとつのゴシックについて、
その存在理由を言えるのだと思う。

ないものをつくる。
可能性を広げる。
疑問を持たずに。
そういう、プロになりたいと思いました。

miotobi

考えたこと~想像力

2010年08月17日

rokube-

タイ・バンコクのスラム街にある保育園。

そこで行われている
絵本の読み聞かせについての雑誌記事を読んで、
「想像力」について考えさせられました。

様々な団体や企業の寄付で成り立っているという保育園。
立派な建物に、清潔な園舎。
通う子どもたちは、(タイらしくタンクトップの)制服姿。
しかし、保護者が麻薬中毒だったり、刑務所にいたりと、
本当に「保育が必要な子たち」だといいます。

なぜ、絵本の読み聞かせを行うか。
その保育園の先生が言っていた。

 絵本が育む想像力の、
 ポジティブな面を大事にしたい。
 子どもたちの多くは、“家庭”を知らない。
 でも、いずれは成長し、自分も親になる。
 そのとき、家族とは、父親とはどういうものか、
 イメージをもっていてほしい。

知らないから絵本でイメージしてほしいというと、
安易に感じられるかもしれない。
でも、心を動かされました。

家族とはどういうものか。
タイでは、現代の親たちもそれを学ばずに育ったため、
子どもを愛することを知らず、
わが子にひどい仕打ちをしてしまうことがあるといいます。

悲しすぎるその連鎖を、どうしたら断てるのか──。
こうした問いの答えのひとつが、「想像力」なのだと思う。

「想像力」は何のために必要か。
「想像力」は何をもたらしてくれるのか。

ポジティブに考える力、未来を切り拓く力、
物語を生み出す力、人生を自ら楽しむ力……
たくさんあげられると思いますが、
そのなかでも根本的で、もっとも大切なものは、
「思いやり」だと思います。

タイの保育園の先生も、
「知らないことのイメージをもてるようになること」を、
読み聞かせの最終的な目標だとは思っていないはずです。

絵本で「愛」や「家族」といったイメージ築き、
かつ想像力を養う。
その双方の「成長」をとおして、
「思いやり」をもって
人に接することができる人になってほしい。

そういう思いが根底にあって、
それが、読み聞かせの
最終的な目標のひとつなのだろうと思います。

私がこうしたら、○○ちゃんは嬉しいだろうな、
悲しいだろうな、痛いだろうな。
想像力が育まれるほど、
自分の行動について、相手を主語にして考える力も育つ。
経験がそれを後押しする。

タイの保育園の先生の言葉に、
1冊の絵本と、そこから広がっていく「想像力」がもたらす、
幸せな社会の未来が見えた気がしました。

miotobi

じっと手を見る

2010年08月05日

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「正義を掲げるものは常に自分の正義を疑わなければならない」
みたいなことが、ジャンプの『BLEACH』に出てました。
頻繁にこの手の箴言が出てくるので、
日本の良識を下支えしてるかと思います、このマンガ。

日経のコラム(編集部筆)で
「年金開始年齢を70歳に引き上げろ」という旨の
主張がなされているのを読んで、これを思い出しました。

趣旨はまあ、一理はあるもので、
平均寿命が。男79歳・女性86歳になっている現在、
65歳支給のままだと大卒の場合、人生の半分近くを
もらう側で終わるじゃないか、
それで若い世代に負担を押し付けるのはいかんじゃないか。
健康な高齢者は働くほうが本人のためにもいいし、
企業の法人税引き下げもできるじゃないか──という。(原文ほぼママ)

動けるうちは働いて、というのはいいんです。
人間、共同作業しないとコミュニケーションはしにくいし、
趣味ばっかりの生活はたぶんつまんないでしょうから。
でも、高給取りの新聞記者が
(しかも企業がなきゃ成り立たない日経の)
全く自己内省もなしにそれ言っていいのかね、
というのはあります。
同じ43年間(大卒から65歳までね)だって
大企業と中小零細じゃ、労働時間違うんじゃないの、とか。
企業で働かなくても、孫の面倒見てるジジババもいる、とか。
(うちも共働きなんで、義父母には相当世話になりました)

短いコラムなんで、端的に主張しなければならないのは
わかりますが、そういう要考慮部分をにじませるのは
1行加えれば済むし、さして主張はブレないはず。
たとえば、「単純化していえば」くらいでも。
わかりやすいのは大事ですけど、
人間の社会はそんなにわかりやすいもんじゃない、
ということ、ホントに軽視されてきている感じがします。
グローバル化(アメリカ化)ですか、これも。
70歳になっても「Yes, We can」すかね(精力絶倫老人……)。
ワタシは65歳くらいで枯れた老人になるのが目標ですので、
年金ほしーです。

しまった、ねんきん特別便まだ開けてねえ。

moon hill


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