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考えたこと~想像力

2010年08月17日

rokube-

タイ・バンコクのスラム街にある保育園。

そこで行われている
絵本の読み聞かせについての雑誌記事を読んで、
「想像力」について考えさせられました。

様々な団体や企業の寄付で成り立っているという保育園。
立派な建物に、清潔な園舎。
通う子どもたちは、(タイらしくタンクトップの)制服姿。
しかし、保護者が麻薬中毒だったり、刑務所にいたりと、
本当に「保育が必要な子たち」だといいます。

なぜ、絵本の読み聞かせを行うか。
その保育園の先生が言っていた。

 絵本が育む想像力の、
 ポジティブな面を大事にしたい。
 子どもたちの多くは、“家庭”を知らない。
 でも、いずれは成長し、自分も親になる。
 そのとき、家族とは、父親とはどういうものか、
 イメージをもっていてほしい。

知らないから絵本でイメージしてほしいというと、
安易に感じられるかもしれない。
でも、心を動かされました。

家族とはどういうものか。
タイでは、現代の親たちもそれを学ばずに育ったため、
子どもを愛することを知らず、
わが子にひどい仕打ちをしてしまうことがあるといいます。

悲しすぎるその連鎖を、どうしたら断てるのか──。
こうした問いの答えのひとつが、「想像力」なのだと思う。

「想像力」は何のために必要か。
「想像力」は何をもたらしてくれるのか。

ポジティブに考える力、未来を切り拓く力、
物語を生み出す力、人生を自ら楽しむ力……
たくさんあげられると思いますが、
そのなかでも根本的で、もっとも大切なものは、
「思いやり」だと思います。

タイの保育園の先生も、
「知らないことのイメージをもてるようになること」を、
読み聞かせの最終的な目標だとは思っていないはずです。

絵本で「愛」や「家族」といったイメージ築き、
かつ想像力を養う。
その双方の「成長」をとおして、
「思いやり」をもって
人に接することができる人になってほしい。

そういう思いが根底にあって、
それが、読み聞かせの
最終的な目標のひとつなのだろうと思います。

私がこうしたら、○○ちゃんは嬉しいだろうな、
悲しいだろうな、痛いだろうな。
想像力が育まれるほど、
自分の行動について、相手を主語にして考える力も育つ。
経験がそれを後押しする。

タイの保育園の先生の言葉に、
1冊の絵本と、そこから広がっていく「想像力」がもたらす、
幸せな社会の未来が見えた気がしました。

miotobi

パズル

2010年07月29日

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2002年のサッカーのW杯が終わったころ、
日本代表のある選手の名前を度忘れして、友達に電話をかけました。

「代表選手で、MFで、ライン際で粘…」「明神?」「早っ」

。。。どうしてこんなどうでもいい話を思い出したかというと、
最近こういうやり取りが減ったなと思います。

確かこのとき、本当の目的は
その相手と話をすることだったワケなのですが(笑)、
こういうことができなくなった。

わかんないことを聞くフリして、連絡が取りたい、メール送りたい。
ちょっと教えてほしいことあって…って、言い訳にしたい。

携帯が普及してから、脚本家がラブストーリーを
描きにくくなった(待ち伏せとか、雨の電話ボックスとか)
と言っていたことと同様に、
なんでも調べればわかっちゃうことで、
便利さとスピードの対岸にある余分なやり取りが減った。

……と同時に、“自問自答”も減ってるんじゃないかなと思ったのです。

それでここ何日か、調べながら読むのを止めてみました。
資料や本を読んでいるときに、PCも携帯も触らない。
わからないことがわからないまま留まると「想像」するわけです。
自分のなかで知識と想像力を使って、
話の内容と人物のパズルを正しいところにはめようとする。
(もとははまってるわけだから)

まぁ、間違えるところは間違えちゃうんですが、
そうすることでわかってくる全体図って、
すぐ調べて組み立てたそれよりずっと広い。
あとから入る情報が置かれる場所がちゃんとある、みたいな。

これってべつに新しいことじゃなくて、
PCや携帯がない頃に、いつもやっていたことです。
“手持ちの知識とやり取りする”とか“自分の想像力に委ねてみる”
みたいなこと、やらなくなってるな…って気がします。

Asa.s

ハンド

2010年07月09日

IMG_5953

最近、日報にサッカーネタがやたら多いが、
W杯期間だということでご容赦を。

ウルグアイがガーナをPK戦で破って4強に進出したが、
一躍ヒーローとなったのが、
相手ゴールを両手で止めて防いだFWスアレスである。
延長戦もロスタイムに入り、
一発退場となっても人数が減るリスクはない。
それならば、レッドカードになっても、
負けない可能性のあるPKを選択した、というわけである。

私はその判断自体に、とやかく言うつもりはない。
ただ、このことに対するマスコミの反応には、少々驚いた。

「ウルグアイを救った“神の手”セーブ」

この見出しに代表されるように、あきらかにヒーロー扱いだったためだ。
「よくぞやった! 彼の機転がなければ確実に負けていた」
というわけである。

──これって、変じゃない?
まあ、ウルグアイ国内のマスメディアであれば、百歩譲ってよしとしよう。
でも、中立的な立場からみれば、かなりおかしい。

比較するのが適切じゃあないとは思うけど、
なぜか私は野球の江川投手の「空白の1日」を思い出した。
ルール上は確かに問題とはならないかもしれない。
でも、ルール上許されれば、何をやってもいいのか、
と問われれば、そうではない。
ましてや、これはスポーツの世界での話である。

江川投手があれだけ叩かれて、
今回はヒーロー扱いというのには納得いかない。
前者が一個人の私欲の問題で、
後者は勝利のための究極の判断だったから、
本質が違うとでもいうのだろうか。

実は小学5年生の頃、放課後、
クラスメートの大半が残ってよくサッカーの試合で遊んだ。
その際、クラスで1、2を争う秀才君が、
ウルグアイのスアレスと同じことをやった。
その時の反応は複雑なものであった。
「ああ、さすがに頭がいいなあ、すごい判断力だなあ」と感心する一方で、
「それじゃあ、サッカーの面白さがなくなるな」
と感じた者も少なくなかった。

ひと言で言えば、
「あったまいいなあ、でも、きったねーなっ」
ってとこである。

当時の小学生が抱いたこの感情を、
いまの大人たちには求められないのだろうか。
それは、当事者である選手や監督はもとより、
応援しているサポーターや国民も含めての話である。

とくに、今回のケースは、
延長戦のロスタイム間際の出来事であり、
次の試合に出場停止になる以外、リスクはない。
であれば、同じシチュエーションであれば、
何度も同じシーンが繰り返される可能性もある。

──このことを憂い、問題提起するマスメディア、
あるいはスポーツジャーナリストが、
どこかにいたであろうことを、願ってやまない。

Taka

「寄り道」について

2010年04月08日

rock'n roll

3月22日、喜多川泰さんの講演を聞いた。
これで、この約1年間に4度目となる。
ご本人も、同じ内容の話を避けるべく意識されていたようであるが、
今回の講演でも新たな貴重な発見があった。

なかでも、印象に残った話。
自分なりの解釈を加えた「意訳」になっているかもしれないけれど。


人間というのは、すべてが思い通りにことが運んだら、
同じような経験しかできない。
例えば、世間で一流と言われている高校で学び、
同じく世間で一流と言われている大学に入り、
そして世間で一流と言われている大企業の採用試験を受ける、とする。
そうすると、そこまでに挫折を知らない人というのは、
みんなほぼ同じ経験をしてきている。

いわゆる「成功体験」である。

金太郎飴のように、ほとんどの人間が同じ人間に見えて、
そこには「個性」が見つけにくい。
なぜか──。
人生というのは、思い通りにいかないものだからだ。
そして、思い通りにことが運ばなかった時、
どのような対応をとるかが、その人間の価値を決める。

喜多川さんは、「寄り道」の大切さを強調していた。
思い通りにことが運ばず、思いがけずに寄り道をする。
それまでの自分の中では考えもしなかった、
想定外の「空間」に連れて行かれる。

そこでの経験というのは、他の人たちとは異なるものである。
(とくに、成功体験を積み重ねている人とは決定的に違う)
そして、その経験が、必ず後々生きてくる。
そこでの試行錯誤、悩み、苦しみ、そして喜び
──それらのすべてが、その人の「個性」を形づくる。

永ちゃんがNHKのTV番組「SONGS」の中で、
若者たちの人生相談で話した言葉も、喜多川さんと共通している。

「近道をずーっとしていると、いつか必ず近道が敵になってくる」

この言葉は、かなり心に響いた。
そして、同じ感情を、喜多川さんの話を聴いた時に持つことができた。

人間は目先の出来事に一喜一憂する。
喜怒哀楽を表わす。
そのことは、生きていくうえでとても大切なことだとは思う。
でも、“喜び”だけの「寄り道」のない人生を想像してみると、
とてもつまらないものに見えてくる。

私自身、振り返ってみると、本当にそのことがよくわかる。
そして、何が大切だったのかを考えてみると、
その場面、場面で、誠実に一生懸命取り組むこと、
そのプロセスに違いない。
それさえ忘れずに進んで行ければ、
必ずいつか「寄り道」に感謝できる時がくるだろう。

誰かがブログで書いていた。

 「人間は、自分が成し遂げたこと(努力が伴っていればなおさら)を
  成し遂げられない人に対して、往々にして優しくなれない。
  俺だって努力した、私だってつらかった、
  だからおまえもその辛酸をなめるべきだ、
  そういう性根が少なからずある。
  永ちゃんの発言にはそれがない」

喜多川さんも同じである。
そして、そういう人間になることは、
ひとつの目標になるな、と思う。

Taka

「プライド」について

2010年02月15日

sunset

考えてみると、アピックスの仕事には、
読者(クライアント)に「(持つべき)誇り」を
持ってもらうことに価値を置くものが多い。

学校関係の研修手引書などはもちろんのこと、
社史もそうだし、今回の企画単行本もしかりである。
現在進行中の社史に至っては、
そこに目的がある、と言っても過言ではない。

でも、この「誇り」を持ってもらうことほど難しいことはない。
アピックスにも「アピックスとしての誇り」はあるかもしれないが、
それは“教育”やら“研修”によって
もたらされるものじゃあない気がする。

いくら創業者が立派でも、
いまの組織にそのDNAがきちんと受け継がれず、
魅力が感じられないとすれば、
いくら昔はこんなに高い志があったんだぜ、
と声高に叫んでみても、なんの説得力も持たない。

ようは「いま」が大切になる。

いま現在の組織や、属する人たちが、
自分にとって魅力的であれば、素直に「誇り」を持てる。

あるいは、その組織の向かっている方向や、
哲学といったものに共感できれば、
素直に「誇り」を持てる。

でも、逆もまたしかりで、
いくら立派な歴史や伝統があっても、
いまがだめなら誇りなど持てない。

つまり、組織なり、属する一人ひとりの、
“有り様”がすべてとも言える。

「誇り」を英訳すると、「プライド」になるのであろうか。

「誇り」と言うと、
「誇り高き男」とか「もっと誇りを持とうよ」とか、
ポジティブな響きがある。
それに対して、「プライド」は、
少なくとも日本ではちょっとニュアンスが異なる。
「あいつはプライドが高すぎるからな」「へたなプライドなんて捨てろよ」
となってしまう。

先日、産経新聞に載っていた記事が面白かった。
今年5月に47歳になるプロ野球の工藤公康投手の言葉である。

「僕はね、プライドにはふたつあると思う。
『捨てなきゃいけない』ものと、『持ち続ける』もの。
捨てなきゃいけないものは“過去の栄光”。
『オレは昔ね…』なんて言い出したら終わりですよ。
僕はいつも自分の心に問いかける。
『昔の自分といまの自分は違う。しっかりと現実をみろ。
野球を続けたかったら動け、トレーニングをやれ』と。
だから先発でもリリーフでも、敗戦処理でもいい。
『なんでこんな場面でオレが…』と思うようになったら、
もう辞めたほうがいいんですよ。
逆に、持ち続けるプライドは、
自分がやってきたこと(トレーニングや勉強)に対してですね。
長く現役を続けるために、人一倍やってきた自負はあるつもりです」

プライドの、この2つの側面は、興味深い。
「誇り」にも、捨てなきゃいけない「誇り」という、
ネガティブな面は潜んでいるはずである。
それは何かと言えば、少し極論になるかもしれないけれど、
外に向かう「誇り」なのではないか。
そこには見栄とか世間体とかが、顔を出しやすい。
本来、「誇り」も「プライド」も、
自分の内面に向かう時、凄さを発揮するもののように思う。

持ち続けるべき「誇り」や「プライド」を
どのように醸成していくか。
なかなか難しくはあるけれど、
少しヒントをもらったような気がする。

Taka


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